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"After Lacjsi s speech, the Knights grew determined to crush their ancient enemies clan by clan." ――Tivadar of Thorn, History of the Goblin Wars ザ・ダーク ラクジュスィの演説の後、騎士たちは彼らの旧敵の部族をひとつひとつ滅ぼしていく決心を固めたのだった。 ――茨の騎士ティヴァダール「ゴブリン戦史」 "After Lacjsi s speech, the Knights grew determined to crush their ancient enemies clan by clan." ――Tivadar of Thorn, History of the Goblin Wars 第4版 【M TG Wiki】 名前
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https //ja.wikipedia.org/wiki/無意識の色 https //48pedia.org/無意識の色
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「これが例のウィッチですか…男ですよ」 ウィッチ?何のことだ? 「私のストライカーに触るな!」 なにも殴る事ないだろ… 「あいつが例の国籍の無いウィッチ?気味が悪いわね」 放っておいてくれ 「貴様のようなどこぞの馬とも分からない者に命を預けられるか」 好きでやってるんじゃねえよ!なんなんだよ!カールスラント軍人ってのは皆そうなのかよ! 「仲間を守る為だよ、軍曹」 わからねぇよ!なんで銃を向けられなくちゃならねぇんだよ! どうしてこうなったんだよ、教えてくれ!どうして、どうしてだ! 「今日からお前の上官のアドルフィーネ・ガランドだ、ようこそJG27へ お前は私の希望だ」 希望?なんのことだよ… 「大丈……私…仲間だからナ…」 …エイ…ラ? ミッケリ臨時空軍基地 深夜 いらんこ中隊居室 「うう…何の事だ…放っておいて…」 エイラ「んぅー…?」 翌日の出撃に備えていらんこ中隊の面々が寝ている中、エイラはうめき声に起こされたのか 目を擦りながら声のするほうを向く エイラ「…オレ?」 ハルカを挟んで隣にいる俺のところまで歩いて様子をみる エイラ「うなされてるノカ?」 エイラから見れば見た事の無い苦痛の表情で俺は低い声で唸っている エイラ「…」ゴソゴソ エイラは今だ覚醒していない頭で何かを考え、俺の布団に入る エイラ「悪い夢を見てるのかオレ?大丈夫ダゾ、私がいるからナ、大丈夫ダゾ…」ナデナデ 18歳の体格だけ見れば大人の俺に大人にも満たない幼いエイラに撫でられ、俺は少しだけ険しい顔が緩む エイラ「大丈夫ダゾ…私達は仲間だからナ…」 エイラ(初陣は頼りっぱなしだったカラナ…コレくらいはなんて事ナイカラナ、これで貸しはナシだから…ナ…zzz) 半覚醒状態から再びエイラは俺の顔を抱えて眠りに落ちた ミッケリ臨時空軍基地 早朝 いらんこ中隊居室 俺「んむぅ~ぅ…、なんか嫌な夢でも見た気がする。あのクソ猫の夢で…も…?」 目を開けたにも関わらず光が入ってこない事に違和感を覚えた俺は顔を後ろに下げる 俺「…エイラ?なんで俺のベットに?」 朝日が出そうなのか空が夜の黒から灰色になりかけた早朝の為いらんこ中隊の面々は未だに眠っている エイラに顔を抱かれる形で寝ていた俺は微妙にしつこくないが甘ったるい香りに再び眠りそうになる 俺「ってまずい、こんな所穴吹少尉に見られたら俺の首が吹っ飛ぶ…とりあえずエイラをベットに戻すか」 エイラ「んやぁ…」 俺のベットで一緒に寝ていたエイラを抱え、彼女を自分のベットに戻すために歩く その途中にハルカのベットがあったがハルカ本人はそこには居なかった 俺(昨日アホネン大尉に連れて行かれたままだっけか…何も無ければいいけど…よっと) エイラ「んん~…」 エイラをベットに戻し、シーツをかけてやる 俺「幸せそうな寝顔だ、けどどうして俺のベットに…?確か夢でエイラを…」 先ほどまで見ていた夢の事を考えていると首筋に冷たいものがあたる 智子「何をしてるのかなぁ~俺軍曹?」 俺「へっ?」 寝巻きに身を包んだ智子が俺の背後に立ち、そこから俺の右首筋に軍刀の白羽を当てていた 智子「変な事をすればどうなるかは知ってるでしょう?」 俺「し、知ってますが誤解デスヨ…?」 智子「ならどうしてユーティライネン軍曹のベットの隣にいるのかなぁ~、俺軍曹のベットはそっちでしょう?」 俺「こ、こいつのシーツがはだけてたからデスネ…も、戻したわけデスヨ!」 智子「ふぅ~ん」 俺(いつの間にか俺のベットに居たなんて言ったら…コロサレル!) 殺気に満ちた背後の人物に振り向かずに答えながら俺の両手は挙げられていた 智子「まあいいわ、でも変な事をすれば今度はこの刀を引くわよ?」 俺「りょ、了解でアリマス…」 それだけ言って智子が静かに自分のベットへ戻るのを確認した俺は力なく両手を下ろし安堵の息を吐く 俺「はぁ~…助かった…あれ?何の夢見てたんだっけ」 う~ん、と考えていたが思い出せるものでも無いので 俺「ま、いっか」 とりあえず開き直り再びベットに入って睡眠をとることにした ミッケリ臨時空軍基地 臨時滑走路 俺「おーい、エイラ、大丈夫か?」 エイラ「ムムム、ムリダナ…」プルプルプル… キャサリン「まるで生まれたての子鹿ねー…」 凍った湖の臨時滑走路でバッファローを装備したエイラは 60キロ級の爆弾を抱えてプルプルと震えている ミッケリ臨時空軍基地にいる全隊員はスラッセンに駐屯しているネウロイへの爆撃任務の為に 各々の部隊で出撃準備を取っていた エイラ「ど、どうして爆弾をもつ必要があるンダ!?爆撃中隊も居るノニ」プルプル ハッキネン「少しでも投下する鉄量を増やすためです」 俺「シュツーカ部隊は120キロ級の爆弾、かたやこっちは60キロ級ですよ?」 キャサリン「爆撃効果はあまり望めないねー」 ハッキネン「我々の目的は敵航空兵器を撃墜する事ではありません敵地上部隊を撃滅する 事が市場名目です。わずかな可能性にも懸ける必要があります」 エルマ「で、でも!」 ハッキネン少佐に食い下がるいらんこ中隊のメンバーを智子は遮った 智子「わかりました、でも一つだけ条件をください」 ハッキネン「条件とは?」 智子「新人もいます、これ以上爆弾を抱えてたら危険だとわたしが判断した場合の 爆弾投機許可です。」 ハッキネン「…わかりました。わたしだって貴重な機械化歩兵をこれ以上飛行停止処分に したくは無いですからね 任務と新人達を宜しくお願いします」 俺「…爆弾装備は必須らしいな」 エイラ「ムーリーダーナァああああああ!」 エルマ「見た目だけ見ればユーティライネン軍曹のストライカーのほうが力があり そうなんですけどね~…」 キャサリン「逆にオレのストライカーが細すぎるねー、交換したほうがいいんじゃないかねー?」 俺「う~ん…言われてみれば」 エイラのストライカー、バッファローはキャサリンのグラマラスなふとともにはぴったりだが エイラの細い足では隙間でもあるのではないかというほどにミスマッチだ それに比べて俺のストライカーBf109Dに入っている俺の脚は窮屈そうに見える ビューリング「今交換して慣れない機体で飛ばれても困るからな」 エイラ「うううぅ…」プルプルプル… 俺「そういえば昨日から迫水一等飛行兵曹が見えないけど…」 そう思ったのは智子も同じだったようで、彼女が先にハルカを見つけて声をかけていた 智子「ハルカ、何してるの?こっちに来なさい」 だが智子の呼びかけにハルカは答えず、代わりにBf109E型を履いたアホネン大尉が 歩いてきて答える アホネン「ハルカさんは私の中隊に頂く事にしてよ」 智子「んな、なんですって!」 俺(昨日居室に戻ってこなかったのはアホネン大尉が離さなかったからか…) アホネン「あなた、ハルカさんにこういったそうですね、私の列機失格だわ、なんて」 智子「そりゃ言ったけど、それはやる気を出させる為というか…」 俺「…本気ではなかったのか」 少しだけ安心する アホネン「おだまり。そんな冷たい分隊長に、こんな妖精みたいに可愛らしいハルカさんを 任せられませんわ。したがってわたしが預かります、いいわね?」 アホネン大尉に肩を抱かれ連れられてくハルカ 彼女は一瞬だけ立ち止まって気まずそうに智子を見つめた 先日図書館でアホネン大尉に連れられた時の顔と同じだ… 俺「良いんですか?迫水一等飛行兵曹も多分もど…」 智子「あっちのほうが頼りになるから行ったんでしょ!好きにさせるわ! ほら新人二人早く爆弾持って!出撃よ」 俺「本当に良いのですかねぇ…」ボソッ 智子「何か言った?」 俺「何でもありません、了解 俺軍曹出撃準備に入ります」 キャサリン「あ、オレー、これ渡しておくねー」 俺「なんですコレ?」 キャサリン「私からのプレゼントねー」 俺「はぁ…どうも」 爆弾を装備した俺の腰にキャサリンに何か巻きつけられるが 流石に爆弾をもったままでは確認する余裕が無かったので感謝だけしてエルマ中尉に続いて離陸を始めた スオムス上空 エルマ「俺軍曹、大丈夫ですかー?」 俺「こっちは大丈夫ですエルマ中尉」 エルマ「ユーティライネン軍曹は…」 エイラ「ムムムム…」 俺「通訳すると大丈夫らしいです」 エルマ「そうですか~」 エイラ「ムリダナって行ってるだろオレエエエエエエエエ!」 俺とエイラはいらんこ中隊の隊長であるエルマ中尉の後ろに入り三機編隊(ケッテ) キャサリン「がんばるねー!」 ウルスラ「…」 キャサリンの後ろにウルスラが飛ぶ形で二機編隊(ロッテ) ビューリング「トモコ、不安なのか?」 智子「作戦どおりにやれば大丈夫よ」 智子の後ろにビューリングが飛ぶ形で二機編隊(ロッテ) ビューリングの問いに智子は親指を立てながら答えていらんこ中隊は高度5千第一中隊の後方、シュツーカ部隊の前方の中間で雲の下からスラッセン上空目指して進行している しばらく飛んでいると先頭を飛んでいた第一中隊から無線が入る アホネン「敵機発見、これより攻撃にうつりますわ」 中隊に緊張が走る 駄々をこねていたエイラも黙り込み前方を見る 智子「距離はまだ先だけどあの形…ラロス改(戦闘機型)が20ね…」 俺「ラロス…改?」 エルマ「最近出没した新型のネウロイですね、普通のラロスよりも速度、旋回性能も高くて防弾装甲まで持っているんです…」 俺「そんなのが20も…」 護衛任務でいらんこ中隊の先頭を飛んでいた第一中隊は上昇を開始して攻撃態勢に移ろうとしている その様子を見てアホネン大尉達が全機撃墜するのを祈るのみだと思った矢先 智子<扶桑1番、先行します!> 智子は自分のコールサインを無線で名乗りながら魔道エンジンを吹かして第一中隊の前に出る エルマ<き、危険です智子少尉!> 智子<エルマ中尉!僭越ながら指揮をとらせて頂きます、全機わたしについてきて> 俺「マジかよ…カールスラント2番了解」 エイラ「す、スオムス2番リョウカイ!」 智子<中隊、緩降下!> 智子がラロス改編隊20機とすれ違う所で緩効果を開始し、いらんこ中隊もそれにならう ブゥウウウウウウウン 俺の上をラロス改が通り過ぎ、少し遅れて風が爆弾を持った彼の体を揺さぶる 俺「あぶねぇ!…というかこんなふらふら飛んだ状況じゃ」 エルマ「ぜ、全部こっちに向かってます!きゃあ!きゃあああああ!」 智子「いいのよ!このまま低空に逃げます、編隊を崩さないで!」 ラロス改20機が背後で旋回する中、いらんこ中隊は大雪に覆われた地上スレスレまで高度を一気に落とす キャサリン「このままじゃ全滅ねー!」 キャサリンが言うのが早いかラロス改編隊は距離300まで迫り牽制射撃を開始する 智子「高度15メートル…ラロスをもう少し引き付けて…もっと来なさい」 エイラ「うおおおおぉぉ!?当たりそうになっタゾ!」 一番ふらふらとしているエイラに射撃を集中しようとラロス編隊はより接近した所で 無線で指示が入る 智子<中隊!爆弾投下!> 智子の指示で、やっと重しと別れる事が出来る、そんな気持ちで俺は地面に爆弾を 投げつけた エイラは何も考える余裕が無かったのか爆弾をただ離す ボウン!ボウン!ボウン! 中隊の人数分だけ爆発が上がりエイラを狙っていた敵編隊は爆発に巻き込まれ その後ろにいた敵は爆風でバランスを崩しいくつかが積もっていた雪をえぐり地面に衝突する 智子<私とビューリング、キャサリン、ウルスラは左旋回 エルマ中尉の小隊は右旋回!> エルマ「りょ、了解!」 爆弾が爆発した事によって雪煙が背後で舞い上がりながらエルマは右旋回行動に移る エイラ「し、心臓に悪いンダナ…」 俺「それは俺も同意だな…くっ!」 先頭を飛ぶエルマについていこうとする俺だが完全にエルマのルートをトレース出来ずに 若干コースから膨らむ 俺(頼りなくても流石先任ってだけはあるのか…エルマ中尉の反応が早い…いや俺が遅いだけか?) エイラ「まだ残りがイルゾーここからどうするんだエルマ中尉ー!」 ] エルマ「さっき渡した拳銃をつかってくださいー!」 エイラ「リョーカイ!」 雪煙でいらんこ中隊を見失ったのか残った敵編隊は反応が遅れて背後を取られ 攻守の立場が逆転する 俺「さっき?俺は何にも…」 キャサリン<オレー、さっきミーがプレゼントしたのを使うねー> 俺「さっき?たしか出撃前に」 目の前に3機のラロス改を捕らえたエルマ小隊は俺を除いて9mm拳銃を至近距離から 撃ち始めている中 無線でキャサリンに言われて俺は腰に手を回す 俺「拳銃か!?ありがとよ、キャサリン少尉!」 キャサリン<ノ~プロブレ~ム~♪> キャサリンから出撃前にプレゼントされた腰のホルダーから銃を取り出し咄嗟にトリガーを引く バオオオオオン! 俺は銃の反動で転げそうになった 俺「いってぇ・・・!ってこれリボルバーかよ!」 俺が手にしていたのは6連装の45口径リボルバー、中身はマグナム弾らしく 拳銃には似合わない反動が俺の手を未だに痺れさせる 俺「っていってもコレしかないし…」 エルマ「一機撃墜しましたー!」 エイラ「こっちも一機撃墜ダ、やったぞオレー!」 俺「エイラまで!?まじかよ…逃がすか!」 エルマとエイラは各々ラロス改を1機づつ撃墜し、旋回して逃げようとする残った一機を同じく旋回して追う その最中、後方雲の下あたりを飛んでいたシュツーカ部隊の先頭、ルーデルと目が合った 俺(…常に見てるってか) 『軍曹が変な動きをすれば貴校をためらい無く撃つ、それだけは忘れるな』 ルーデルの言葉が脳裏を過ぎり、両手で45口径リボルヴァーを構え連射する 俺「…いいぜ、見てろよ!」 野太い銃声が5発続いた所でそれは鳴り止む ラロス改には3発の弾痕が左翼に残っているが未だに飛び続けて、機体を水平に保とうとしている 再び上昇されればスペックの差で逃げ切られてしまう そう考え俺は空になったリボルヴァーを腰のホルダーに戻し、Bf109Dのスロットルを開けてありったけの魔力を注ぎ込んだ 俺「逃がさねぇよ!うぉおおおおおおおおおおおおお」 バンッ! 俺のBf109Dの翼下にある排気口から鋭い爆発音と共に一気に加速する 低空でのダッシュ力は重いラロス改よりも軽いBf109Dに軍配が上がり、ラロス改との距離を0距離まで積め 俺「おおおおおおぉぉぁああああああ、ぶっっっこわれろおおおおおおおおお!」 ガァオオオオオオオオン! 俺は弾痕の残るラロス改の左翼に思い切り右拳を叩きつけ、防弾装甲を施している敵の翼は折れ、ラロス改は回転しながら地面に叩きつけられ爆散した キャサリン「ほわーつ…オレが拳でラロスを撃退したねー」 エルマ「ええええええ!?」 ウルスラ「…」 俺「はぁはぁ…一応これで俺も撃墜1って事で良いんですかね?エルマ中尉」 エルマ「た、多分そうだと思います!」 エイラ「やったなオレ!私達の初勝利ダゾー!」 エルマ小隊とは別行動だった智子小隊とキャサリン小隊が合流して高度15メートルから徐々に高度を上げる ビューリング「まさか拳でネウロイを倒すとはな…」 智子「出来れば銃で倒してくれれば安全なんだけどね…とりあえず作戦はうまく行ったわね!」 ビューリング「ああ」 いらんこ中隊は勝利に高揚とした気分を感じながら進路を基地へと向ける 俺「これでも俺を撃つのかよ、ルーデル大尉」 俺は撤退進路を進みながらラロス改を撃墜した右拳をルーデルへ向けた ルーデル「アーテルハイド、あの連中やるじゃないか」 隣を飛ぶ彼女の薔薇を凍らせたような美貌を持つ有能な副官に言った アーテルハイド「驚くに値しません、カールスラント戦線で扶桑皇国の義勇兵達は カールスラント空軍軍人に劣らぬ戦果を上げております」 ルーデル「知っている、私は肌の色で能力を判断する習慣は持ち合わせていない」 アーテルハイド「ではなぜアナブキ少尉にあのような事を?」 ルーデル「沸点を知りたかったのだ。機械化歩兵には冷静な判断力が大切だ 少し沸点は低いようなので心配したが面白い事をやってくれるな、あの少尉は」 アーテルハイド「しかしあの中隊の中には男の機械化歩兵が居ると聞きます」 ルーデル「それがどうした?」 アーテルハイド「男の機械化歩兵は国籍を持たない者だと部隊の皆は噂しています」 ルーデル「アーテルハイド、前線での根拠のない噂は際限が無い 気にするな」 アーテルハイド「ですが彼はカールスラントの軍服を」 ルーデル「実際にそうだとして奴はここスオムスに居る、カールスラントに影響は無い 貴官は噂を気にしすぎだ あの男の戦いぶりは見ただろう」 アーテルハイド「拳を敵に叩きつける、正気の沙汰とは思えません」 ルーデルはこちらに右拳を突きつける男の機械化歩兵をみて微笑を浮かべる ルーデル「馬鹿なんだよアレは、馬鹿に器用な事など出来はしないさ」 アーテルハイド「その言葉には同意します」 ルーデル「とにかく、あの連中は見事に自分の仕事を果たしてのけた。さて、 我々の仕事をしようじゃないか」 アーテルハイド「了解しました」 ルーデル「よろしい、シュツーカ中隊、私に続け!」 ルーデル率いるシュツーカ中隊ははV字編隊を維持したままスラッセンの街に侵入し爆撃を開始した 続く
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意識の遮断 1青 インスタント プレイヤー一人を対象とする。それはこのターンカードを引けず、また手札からカードを捨てられない。 僕にはキミの言っていることがわからないけれど満足かい? 37版271 [部分編集] 青の青対策カード
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概説 心理学的分析 分析哲学からの批判 人格の同一性問題から派生する意識の超難問 概説 意識の超難問(harder problem of consciousness)とは、オーストラリアの人工知能学者ティム・ロバーツが提起した問題で、「なぜ私は他の誰かではないのか?」というような、高度な自己意識(自我体験)に関するものである。 第一回と第二回のツーソン会議でデイヴィッド・チャーマーズが、意識のイージープロブレム( easy problem of consciousness )と意識のハードプロブレム(hard problem of consciousness)の問題提起をして大きな影響を及ぼした。ティム・ロバーツは1998年の第三回ツーソン会議で、意識のハードプロブレムよりも、さらに難しい問題として「意識の超難問」を以下のように提起した。 たとえいわゆる意識の「難問」――すなわち、いったい全体なぜ主観的経験というものが脳から生じるのか――を解くことができたとしても、より巨大で根本的な問題が残ってしまう。「いったいなぜ私はある特定の個人の脳に生じる主観的経験のみ経験できるのか?」言い換えれば「なぜ特定の意識する個人がたまたま私なのか?」という問題である。 神経生理学者ジョン・エックルスは『脳と実在』において超難問的な体験を以下のように語っている。 この意識的に経験している自己の本質は何か。しかもその自己が、特定の脳にこの独特な仕方で関わってるのはどうしてか(中略)私はこの考えを18歳のとき以来、抱き続けている。その年、この問題を、いわばハッと思いつき、その興味と衝動に駆られて、それ以来私は生涯を神経系の研究に費やすことになったのである。 トマス・ネーゲルは、超難問を、 私がそもそもある特定の人物(たまたまトマス・ネーゲルなのであるが)であることはいかにして可能なのか? と表現する。そして人格の同一性の問題については、未来においてある経験をもつ誰かと自分との同一性や非同一性は、記憶、性格の類似、物理的連続性など、どのような分析によっても汲み尽くすことのできない内容をもっており、そのような分析は同一性の必要条件さえ与えていないよう思われる、という。そして、トマス・ネーゲルを含む世界についての完全な描写が与えられたとしても、なぜトマス・ネーゲルが「私」なのかという絶対的に本質的なことが抜け落ちていると考える。 日本では永井均が、この問題を「独在性」という言葉で表現し、独自に探求している。 心理学的分析 自己意識の心理学的研究の出発点になったウィリアム・ジェイムズは、個人の自己意識を描写して「二重構造」であるとした。目的とする自己と、主体たる自己である。彼は、知っている自己、すなわち、私( I )と、知られている自分、すなわち、私( me )を区別した。主格の私( I )は純粋な自我( ego )である。それにひきかえ、目的格の私( me )は私が意識しているかも知れぬたくさんのもののうちの一つであって、三つの要素からなっている。ひとつは物理的な、あるいは物質的なそれ、ひとつは社会的なそれ、さらにひとつは精神的なそれ、である。ジェイムズは注意深く指摘する。これら二つの自己は「異なっている二つのもの」ではなくて「自己が差別された結果の二つ」である、と。 渡辺恒夫の解釈では、自我体験は、「私」自身を具体的経験的個人としての自己とはぴったり重なり合わないものとして体験することである。内省的自己意識の水準では自己は、意識される自分(私1)と意識する自分(私2)へと分裂して体験される。ただし私2は私1のように明確に把握されることは無い。対象として意識されればただちに、私1へと組み入れられてしまう。だからこの分裂は、自分でも意味のはっきりつかめない問いかけや違和感として、体験される他ないのである。ここから「私はなぜ私なのか」「私はなぜ他の誰かではないのか」という独我論的問題意識が生じる。私2に私1のような実体的自己同一性を与えることによって違和感を解消しようとするのが「超越的解決」で、これには「魂」の概念が相当する。 分析哲学からの批判 意識の超難問は擬似問題であるという批判がある。「私」という指示詞と固有名詞を存在論的に異なるものと捉えることから生じる錯覚問題であるというものだ。 大庭健は、まずフレーゲの言語哲学を援用し、「語の指示対象」と「語の意義(センス)」を区別する。たとえば「『坊ちゃん』の著者」と「夏目漱石」は指示対象は同じでも意味が違う。これが語の意義の違いである。その上で「私」という語と、その語を発した「大庭健」という語の、それぞれの意義は異なるという事実を、「私」と「大庭健」とでは、それぞれの指示対象が違う、というスリかえによって(意識の超難問のような)間違った推論が生じるとする。これは「私」というメタ言語によって、自分についてメタ・レベルの思考を行うことから、自分の「内なる自己」、つまり「私」が、自分という人物とは区別される存在であるような感覚が生じるからである。しかし「私」という語は常にその語を発した者を指す。これは自分が記憶喪失に陥った場合でも同様であり、指標語である「私」は指し間違うことがなく、指示対象を同定する必要もないのである。なおデカルトの「我思う、ゆえに我あり」については、「我思う」という意識内容はやはり同定の問題が生じず、よって厳密に表現すれば、指標語「私」は心理的述語を伴って用いられる時には指し間違いがありえないということである。 三浦俊彦は、超難問はチャーマーズの意識のハードプロブレムに論理的に還元可能であるとし、また超難問は問いのタイプとトークンを重ねた多義性の誤謬か、真理値をもたない命題関数を「なぜ」の対象とした文法違反に過ぎない、とする。また超難問とは、たとえで言うと、サイコロを振って*の目が出たことを確かめた後で、「なぜ*の目なんだ?」としきりに不思議がる、いわゆる「事後確率の誤謬」の一種だともいう。 人格の同一性問題から派生する意識の超難問 (以下は管理者の見解) 意識の超難問には、私が人格の同一性の派生問題で論じたような、意識のハードプロブレムには還元できないような問題があるよう思う。それは永井均が「独在性」という用語で提起している問題と重なる。 「独在性のアポリア」というべき問題は、以下のように三段階の思考実験によって提起できる。 (1)「私」は人物Aであり、人物Aには「私こそが本物の私である」という特定の現象的意識(あるいはクオリア)がある。仮に「私」である人物Aが消えて三時間後、スワンプマンのように人物Aと物理的性質が同じであり、また心的にも同じように「私こそが本物の私である」という現象的意識がある人物Xが現れたとする。それは広義の心脳同一説を前提とした物理主義の立場では、「私」と同一の存在だとみなせるはずである。あるいは「私」そのものである、とみなしても構わないかもしれない。なおこの場合、人物Xの出現場所がどこであっても構わないよう思える。「私」である人物Aは場所を移動しながらも推移的に「私」であり続けることが可能だろうし、また人物Aの存在する場所が日本であってもアメリカであっても、「私こそが本物の私である」という特定の現象的意識があるなら場所による相違はないはずである。 (2)しかし同時刻に「私」である人物Aと、物理的性質も心的性質も同じである人物Bがいたとする。その人物Bも「私」と同じように「私こそが本物の私である」という現象的意識がある。にもかかわらずその人物Bは「私と同一」とはいえない。「私」にとっては端的に人物Bは「他者」だからである。この場合、難解な問題が派生してくるように思われる。つまり人物Bは物理的性質も心的性質も「私」と同質であるにも関わらず、端的に「他者」であるゆえに、「私」の本質とは物理的性質や心的性質に還元できない何かである、と主張することが可能かもしれない。トマス・ネーゲルや永井均の問題意識の核心はこの部分であるよう思われる。 もちろん物理主義的な立場から、「人物Aも人物Bも空間を異にして同じ性質の物理現象と現象的意識があるだけだ」と考えることはできる。しかしそう主張した場合、(1)の物理主義的な解釈と矛盾する問題が(3)の思考実験で派生する。 (3)同時刻に「私」である人物Aと物理的にも心的にも同じ存在者人物Bがいたが、その両者が同時に消えたとする。そして三時間後に人物Aと物理的に同じであり、また心的にも同質である人物Xが現れたとする。その人物Xにはもちろん「私こそが本物の私である」という現象的意識がある。では、その人物Xは「私」であった人物Aか、それとも「他者」であった人物Bか、あるいはどちらでもないのか、という同一性についての困難な問題が生じるのである。 その問題は、意識のハードプロブレムに還元して解答することは不可能なはずである。物理的性質も心的性質も人物Aと同じであるにも関わらず、人物Aと同一であるといえないからだ。また逆に同一ではないと証明することもできない。意識の超難問を批判する三浦俊彦や大庭健はこのような問題を考慮していないよう思われる。 端的に「私」であるという事実は、物理的性質や心的性質などには決して還元しきれない本質があるのである。しかし、「私」には意識のハードプロブレムに還元できない「何か」が確かにあるのだが、パーフィットのスペクトラムの思考実験を応用して検証すれば、その「何か」は存在することが不可能にも思える。パーフィットの思考実験は「人格」概念を個別の意識現象に還元するものであったが、私はその個別の意識現象であるクオリアや現象的意識をスペクトラムの思考実験の対象とする。個別のクオリアはそれ以上の何かに還元不可能に思えるが、にも関わらずそのクオリアと対応関係にある物理状態としての脳は空間的・質量的に還元可能である。先に挙げたような「私こそが本物の私である」という現象的意識が人物Aと人物Bにあったとする。それらの現象的意識やクオリアは、人物Aと人物Bの脳細胞と因果的関係があるとするのが素朴実在論や科学的実在論を前提とした考え方である。ならばその人物Aと人物Bの脳細胞を、 SF映画の転送装置のようなもので1%だけ交換したらどうだろう? 1%ぐらいの交換では「私」は入れ替わらないように思える。しかし 90%を置き換えれば「私」も入れ替わってしまうように思える。では、30%なら、あるいはちょうど半分の50%ならどうだろう? やはり、このような問いに合理的に答えるのは困難である。 即ち意識の超難問を認める独我論的な主張と、それと相反する立場の主張が同時に正しいよう思えるのである。この矛盾した状態が示すのは、そもそもの思考の前提――複数の人物がいれば、人物の数だけ肉体と精神があるとする素朴実在論・科学的実在論が間違いだということなのだ、と私は考える。 ※意識の超難問から実在論を否定せざるを得ないことを、人格の同一性の派生問題として詳述している。よろしければ参照されたし。 参考文献、論文 大庭健『私はどうして私なのか』 講談社現代新書 2003年 渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 世界観の心理学で独我を超える』ナカニシヤ出版 2002年 トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』 永井均訳 勁草書房 1989年 三浦俊彦 「意識の超難問」の論理分析」2002年 『科学哲学 35-2』 http //www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jpssj1968 cdvol=35 noissue=2 startpage=69 chr=ja 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B http //homepage1.nifty.com/t-watanabe/correspondence.htm http //www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site46/religeous8.html
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概説 人格の同一性問題との関連 意識の時間的統一の問題 概説 人間には五感がある。しかし同時に複数の感覚があった場合、それらは独立して存在しているのでなく統一された意識の内部にある。たとえば繁華街を歩いていると様々なものが見え、同時に様々な音が聞こえ、同時に様々な匂いがある。それらの感覚は統一的な意識の内部にあり、意識は全一的なものとして存在している。これが意識の統一性である。 ジョン・サールは次のように論じている。 いま私は、指先の感覚や首まわりのシャツの圧迫感、落葉の風景だけを経験しているわけではない。これらすべてを単一の統合された意識野の一部として経験している。病理的なところのない通常の意識は、統合された構造とともにある。カントはこの意識野の統合を「統覚の超越論的統一」と呼び、そこから多くのことを引き出した。そして彼は正しかった。これから見ていくように、それは非常に重要なことだからである。 私はかつて、質的であること、主観性、統合性という三つの特徴は、意識の個別の性質として説明できると考えていた。しかしいまやそう考えるのはまちがいであるよう思える。この三つはいずれも同一の意識の諸側面なのだ。意識はまさにその本性からして質的であり、主観的、統合的である。(ジョン・サール『MiND 心の哲学』pp.181-2) このサールの洞察は正鵠を得たものだと思える。意識とは一つのものとして統一され、それこそが「私」であると考えてよいだろう。そして、その「私」が人格の同一性問題における主体となるはずである。 人格の同一性問題との関連 デレク・パーフィットは論文「divided minds and the nature of persons」で、人格の同一性問題にかんして単一理論(Ego Theory)を強く否定している。単一理論は通時的に人格の数的同一性を成立させる単一の実体(デカルト的なエゴ)を想定する。この理論によれば未来の或る人物は「私」であるか「私」でないかのいずれかだということになる。これを全か無(all or nothing)の要件と呼ぶ。これは素朴心理学的な理論である。 単一理論と反対の立場が複合理論(Bundle Theory)である。これはヒュームのように「私」を複数の性質の束と考えるものである。ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解できると考えた。パーフィットはヒュームの考えを継承しているのである。彼らによれば「私」とは「国家」のようなものであり、エゴという単一の実体ではなく複数の意識要素の集合だということになるので、全か無の要件は否定される。 意識の統一性の観点からすると、パーフィットとヒュームの理論は誤謬であると思える。個別の感覚は単に束のように集まっているだけでなく、サールが言うように一つの意識内にあり、私秘性を持ち、一つの主観的なものとして存在しているからだ。 ただし複合理論でも意識の統一性が説明できないわけでもない。意識はその内部に多様な感覚を含む場合があるが、パーフィットは「多様な感覚を意識する」という一つのものがあれば意識の統一性は説明できると考えている。たとえば鐘が三回鳴った場合、個別の鐘の音は異なる感覚だが、「鐘が三回鳴った」という一つの記憶があれば、その一つの記憶こそが人が感じている意識の統一性の実態だということである(Reasons and Persons, pp.250-1)。 しかしその「多様な感覚を意識する」というもの、あるいは「一つの記憶」が、まさに人格の数的同一性を問われる対象となる「私」であると考えることができ、全か無の要件が成立するので、パーフィットの説明には不足があるように思える。 意識の時間的統一の問題 意識の統一性の観点からすると単一理論は妥当だと思える。ただしこの場合の単一のものは必ずしもデカルト的なエゴである必要はなく、全か無の要件を成立させる単一の意識であれば十分である。すると、そこから意識というものは単に同時的な感覚が統一されたものではなく、時間的に乖離した感覚も統一されたものであると考えたくなる。仮に時間的な統一性がないとすると、「私」は意識内容(クオリア)が少しでも変化したら消滅してしまうからだ。 ところが時間的に乖離した感覚の統合には、大きな困難が伴うことになる。時間とは意識を「断絶」するものであるからだ。 意識には持続感がある。ベルクソンはメロディーを例に挙げ意識の持続的性質を論じている。確かにメロディーの個別の音がそれぞれ独立した感覚ならば、人はそれぞれの音が繊細に融合した(たとえばショパンのエチュード 10-3のような)メロディーを感じることはできないはずであり、持続が意識の本質的性格であるとみなしたベルクソンは正しいように思える。そして意識の統一性とは同時的な感覚の統一だけでなく時間的に離れた感覚の統一のことでもあり、人が感じる持続感とは単一意識の持続に由来すると思いたくなる。 しかし時間変化とは意識を断絶するものであることは事実である。たとえば私が交差点で「青→黄→赤」という信号変化を観察した場合、赤になった時点で青は完全に消えている。赤と青には完全な断絶があるので、その断絶によって意識の時間的統一性は成立しないと考えられる。赤になった時点で青が完全に消えているということは、赤と青が同一の存在者であることはできないということである。 意識の時間的統一の問題=人格の同一性問題において、単一理論と複合理論を図にすれば以下のようになる。 上図の単一理論の方では意識が持続的なものとして繋がり、時間を通じて数的に同一であることを表している。逆に複合理論の方ではヒュームやパーフィットが考えた通り、異なるクオリアは別の存在者だとして表している。 なお「変化」と書いている部分は、実際にクオリアが変化しているということではなく、「変化を感じている」というクオリアがあることを表している。たとえば「痛みが消えた」という変化の感覚があることと、実際に痛みが消えることは全く別のことである。前者の事実から後者が事実だと推論することは動的宇宙論という一種の形而上学になる。 人は自分の意識を持続的なものとして感じているので、一見単一理論の方が正しいように思える。しかし単一理論の図でも、赤の時点になれば青は完全に存在していないので、青と赤の間には断絶があることになる。断絶があるならば意識は時間を通じて単一であると考えることはできない。青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということである。 もちろんパーフィットが否定した単一の実体であるデカルト的エゴを認めるならば、それは身体からも精神からも離存するものなので、意識の断続にかかわりなく持続していると想定することはできる。 しかし時間の形而上学で静的宇宙論が妥当だとすると、各時点のエゴは永久的に、かつ対等に存在していることになるので、やはり青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということになる。 現在の物理学では宇宙を三次元の空間に時間を加えた四次元として扱っている。四次元時空は相対論を記述するための道具としかみなさない学者もいるが、四次元時空こそが実体であるみなす学者もいる。前者の世界観は変化の実在を肯定するので動的宇宙論と呼ばれ、後者の世界観は変化の実在を否定するので静的宇宙論と呼ばれる。静的宇宙論が実体とみなす四次元時空はブロック宇宙とも呼ばれる。時間は空間と融合して空間が消えないように時間も消えず、宇宙はコンクリートブロックのような塊として永久的に存在するとみなしているのである。 時間の形而上学と人格の同一性問題の組み合わせには以下の四つが考えられる。 ①: 動的宇宙論+単一理論 ②: 動的宇宙論+複合理論 ③: 静的宇宙論+単一理論 ④: 静的宇宙論+複合理論 ここでは時間の形而上学について詳述しないが、①を前提するならデカルトが信じた通り身体からも精神からも離存するエゴの存在によって、全人生を通じて同一の「私」が持続していると素朴心理学的に考えればよいことになる(「私」の死後にもそのエゴは存在するかという問題であるが、ここでは論じない) 人格の同一性が厄介な問題となるのは、②、③、④の三つのケースである。以降ではその三つのケースを前提に人格の同一性を論じることにする。 私は自らの意識を持続的なものとして感じているので、交差点で青を見る私が、次に黄や赤を見る私と数的同一性がない、つまり別人であるというのは信じ難いことである。 ここで「青が黄になり黄が赤になる」というものが単一のクオリアなのだと考える方法があるだろう。それならば静的宇宙論を前提にしても時間を通じた意識の数的同一性を説明できるように思える。だがよく考えるとこの考えにも欠点がある。赤の時点になればやはり青は完全に存在していないので、赤と青の間に断絶を認めるしかない。赤と青は単一のクオリアとして存在することはできないのだ。 ベルクソンの持続の哲学においては、現前する意識には過去の意識が浸透しているので完全な断絶はないと考えることもできる。これは魅力的な哲学であるが、過去の意識が現在に浸透するということを人は具体的にイメージすることはできない。潜在意識や無意識というものを想定することはできるが、それらによって上図で明らかにされた青と赤との断絶を回避できるだろうか? この断絶はあまりにも明白なので難しいように思える。ベルクソンの持続の哲学は未完成である。 複合理論では図解したように、青や、青が黄になるという変化の感覚や、赤をそれぞれ独立したクオリアとして考える。この考えでは「今この私」が仮に青のクオリアだとするならば、その他のクオリアは「他人」になる。これは反直観的な結論であるが、反直観的であることは不可能であることにはならない。私が感じている意識の持続感というのも特定の時点にある一つの独立したクオリアだと説明できるだろう。したがって複合理論は可能な理論であり、意識の時間的統一の問題において致命的な欠点がないのである。 要するに意識の統一性問題において、単一理論VS複合理論という枠組みで考えるなば、意識は確かに同時的感覚を統一しており単一理論が正しいように思えるのだが、意識は時間的に離れた感覚を統一できないので、時間的統一性の問題では複合理論が正しいように思えるのだ。即ち人格の同一性問題においては、現在の「私」から時間的に離れたクオリアは「他人」だと考えるのが妥当に思えるのである。 人は僅か1秒の間にも青→黄→赤という色の変化を認識することができるだろう。異なるクオリアは異なる存在者だとすると「今この私」は僅か1秒未満の存在だということになる。 私はそのような理論がどうしても信じ難い。 人の意識が脳の活動と相関していることは明らかである。その人の意識をripples of light in brain(脳内の光の波紋)と表現した人がいる。これは神経細胞の連続的・協働的な発火活動を上手くたとえたものだが、波紋とは空間的広がりを持つだけでなく時間的広がりを持つということが重要だ。人間の意識とは四次元時空に広がる複雑な光の波紋なのである。ところが波紋とは時間的に持続する滑らかな広がりなのに、複合理論によれば人の意識は僅か1秒弱で完全な断絶が生じることになる。ここに不整合があるように思える。 ただ個別のクオリアたちには数的同一性がなく全て異なる存在者だとし、それらクオリアが持続的な脳の活動と相関して断続(コンマ数秒間隔)的に存在すると考えることに厳密な不整合があるか否かは難しい問題である。これは心脳問題の難しさそのものでもあるからだ。おそらく二元論の立場ならば不整合はないだろう。 少なくとも脳内の光の波紋は純粋に持続的なものなのに、それと相関しているクオリアたちは完全に断絶してると言うならば、二つの事柄には認識上の大きなギャップがあると言うことができる。 そのギャップは以下のような図で表現できる。 脳波(あるいは神経細胞の複雑な光の波紋)は滑らかに持続し、人が感じる意識の持続感と一致している。しかし複合理論が正しければ脳の活動と相関する意識には瞬間ごとの完全な断絶がる。仮に青が「今この私」なら別の時点に存在する黄や赤には青の要素が全くないので「他人」である。脳の持続的な活動と意識の瞬間ごとの断絶に不自然なギャップがあるのは明らかだと思える。 先に論じたように静的宇宙論+単一理論には問題がある。しかし複合理論にも問題があるのだ。確かに複合理論は論理的にも形而上学的にも物理学的にも可能であり、それらの観点からは問題がない。しかしあまりに反直観すぎて信じられないので、問題がないということが問題なのだ。 あるいはどちらの理論も間違っているのかもしれない。しかし単一理論でも複合理論でもない別の理論があり得るのだろうか? 意識の時間的統一性問題の図を見直してみよう。意識の滑らかな持続を表している単一理論の図は直観的に正しいように思われるが、実際の意識経験は図のようにはなっていない。図では過去と現在の経験を一挙に表しているが、人はあくまで現在しか経験できない。図は過去の経験を想起によって再構成し、現在経験に加えたものだ。 人の意識の正体は図のようになっていないのかもしれない。 ベルクソンが観たように意識と時間は不可分である。しかし時間の正体はわからない。私は図で意識を空間的に描いたが、静的宇宙論が妥当なら実体的な四次元時空は空間的なものではない。 人は空間と時間が融合した四次元のブロック宇宙というものをイメージすることはできないのだ。人が認識できるのは空間的な三次元の対象と、それが変化することによって認識できる時間だけである。空間と時間が融合した永久的なブロック宇宙とは人の認識の枠組を超えた存在であり、イメージ不可能である。カントが言う通り人の認識はアプリオリな形式によって制限されている。その形式は「超越論的」なものである。ブロック宇宙とは「超越的」なものかも知れないということである。 ここで重要なのは、人の意識もまたブロック宇宙に含まれていることである。時空の正体がわからないならば意識の正体もわからない。人は自分の意識の正体をイメージすることも語ることもできないということになる。 だが「意識の正体がわからない」という言葉の意味がわからない人は多いだろう。一般に人は自分の意識ほど確実に理解できるものはないと信じているからだ。 経験主義という哲学は自分が経験できないものの確実性を否定する方法である。一見合理的なこの方法が、やがて原理的に経験不可能な物質的実在を否定する観念論へと到達したのは必然的だった。しかし経験主義者たちが見落としたのは「経験」そのものの確実性だった。 人は物事を合理的に考えて判断するが、感覚は判断とともに現れてしまうので、感覚による判断は合理的判断ではない。痛みは「痛い」という判断そのものなのであり、人は感覚それ自体を合理的思考で分析することができない。感覚は合理性の外部にある。カントも感覚の形式を抽出するに留まった。 静的宇宙論が正しければ意識そのものも合理性の外部にあるということになる。 私には、「今この私」を僅か1秒未満の存在だとみなす複合理論が信じ難い。しかし単一理論は不可能に思える。この解決不可能に思えるジレンマは、意識の正体を理解していないことに由来するのかもしれない。人間知性が到達し得ない時空の正体にこそ意識の真理はあり、その真理のみがジレンマを解決できるのかもしれない。 参考文献 ジョン・サール 著 山本貴光・吉川浩満 訳(2006)『MiND 心の哲学』朝日出版社 Derek Parfit(1986), Reasons and Persons , OXFORD UNIVERSITY PRESS Derek Parfit(1987), divided minds and the nature of persons
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意識の同調 [部分編集] エキスパンション第2弾 02A/C RD012U COMMAND X-赤1 (ダメージ判定ステップ):敵軍部隊1つの部隊戦闘力を、部隊解散まで-Xする。 束縛 赤-Z
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意識の二面性、または意識の多義性とは、「意識」というものには本人にしか知られない主観的側面と、第三者からも観測できる客観的な側面の二つがあるということ。またそのために「意識」という用語がさまざまな意味で使われているという状況を指す。 このような混乱した状況は心の哲学の研究にとって障害となるため、デイヴィッド・チャーマーズは意識という概念を以下のように「機能的意識」と「現象的意識」の二種類に分けた。 1、機能的意識 機能的意識とは、「人間が外部の状況に対して反応する能力」のことである。脳を物体として捉える観点から言えば、入力信号に対して出力信号を返す脳の特性としての意識であり、外面的に観測することができる客観的な特性である。心理学的意識とも言われる。 2、現象的意識 現象的意識とは、「主観的で個人的な体験」のことであり、他者からは観測できない個人の主観的な特性としての意識である。これは意識体験、現象、クオリアなどさまざまに呼ばれるが、機能的意識と対比させるときは現象的意識という名前で呼ばれる。 チャーマーズは、機能的意識については既存の物理学の範疇にある神経科学の方法論で解明できると考えたが、現象的意識については哲学的ゾンビの思考実験によって、既存の物理学の範疇にはないものとし、意識のハードプロブレム(意識の難しい問題)と呼び、物理学の拡張が必要であると主張した。 参考文献 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年
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概説 意識の作図学における意識のレベルの概観審美的領域 自伝的無意識(フロイト的無意識) BPM(ベイシック・ペリネイタル・マトリックス) トランスパーソナルな領域日常の時間と空間の範囲内における意識の拡大ないし拡張 日常の時間と空間の概念を超越した意識の拡大ないし拡張 プシコイド性の体験 概説 意識の作図学は、cartography of consciousnessと言われ、LSDセラピーにより得られたデータから人間の無意識には様々な領域があることに気づいたスタニスラフ・グロフが作ったトランスパーソナル心理学の意識の地図である。グロフは、自身が行ってきたLSDセラピーと、LSDの医学実験が法律で禁止された後のホロトロピック・ブレスワークという呼吸法によって得られた変性意識状態のデータがほとんど同じだという事を示している。また、人間の無意識の領域ははっきりとした境界は存在しないもののいくつかに分けられるとしており、その中には機械論的科学の基本的な仮定や原理のいくつかに抵触するものもあると指摘している。グロフは、ジークムント・フロイトの人間観を支持するのは、自伝的無意識や分娩前後の力学の特定の局面に直面するセラピーの初期段階のみであり、無意識への侵入を推し進めていくと、精神分析学で示されているような凶暴で地獄的な領域ではなく、宇宙的な超意識の領域に広がると捉えている。 なお、トランスパーソナル心理学の理論として、意識の作図学を見た場合、最大の特徴は、ケン・ウィルバーやロベルト・アサジオリなどといった他の人物の理論では欠けている分娩前後のレベルに重点を置いているところにあると考えられ(*1)、意識の作図学には過去生の体験や神秘体験、至高体験、臨死体験、覚醒体験などが網羅されているといった意見もある。また、グロフは、トランスパーソナルな領域を理解するためには、意識を新しい方法で捉え直す必要がある事を指摘し、意識が人間の脳の中で創り出される何かで、個人的な生の結果としてだけ存在するという信念を乗り越える必要性を説いている。 意識の作図学における意識のレベルの概観 審美的領域 まず、第1段階として、審美的領域というものがあり、この領域はセラピーの初期段階に感じるもので、虫の鳴き声や羽音、鈴の音を聞いたり、非常に美しい感覚を伴ったりするようである。しかし、この領域は無意識の中に突入していく際に、感覚器官の特定の生理学的特徴によって説明されるものに過ぎないとグロフは指摘している。 自伝的無意識(フロイト的無意識) 審美的領域に続いて、セラピーの被験者は、自伝的無意識、あるいはフロイト的無意識と言われる、生まれてから体験してきた事の中で、何らかの理由で忘れられて無意識に追いやられていたものを体験するという。この領域では、特定の核となるような感情体験を中心として、COEXシステム(凝縮体験系)と呼ばれる集合を形成し、人生の中での同じような体験が時間、空間という制約を超えて芋づる式に現れてくるようである。そして、グロフは、このような感情体験は、自伝的無意識の領域を超えたより深い無意識の領域でも働いていると考えた。 BPM(ベイシック・ペリネイタル・マトリックス) 自伝的無意識(フロイト的無意識)の次の第3段階の領域をグロフは、BPM(ベイシック・ペリネイタル・マトリックス)と言い、この領域は個人的な領域を超え、分娩前後の体験と密接に関わる領域のようである。また、この領域には、BPM1〜BPM4まで、4つのクラスターがあると言われている。なお、グロフは、この領域を個人的な精神(自伝的無意識)とユングが集合的無意識と呼んでいる領域との境界面を表していると述べている(*2)。また、この分娩前後の体験は、出生の臨床段階における解剖学的、生理学的、生化学的側面に関連した基本的諸特徴と密接に関わっていると言えるが、生物学を超えるもので、重要な心理学的、哲学的、霊的次元を含んでおり、機械論及び還元主義的な方法で解釈されるべきではないという。 BPM1では子宮に回帰し、子宮が1つの世界のような役割を果たし、幸福感と安心感に包まれているような領域である。しかし、母親が飲んだ有害物質など様々な要因によって、否定的な内容が見られる場合もあり、臨床的出産が始まる前の子宮内の状態に対応していると考えられる。 羊水的宇宙(『脳を超えて』p.150より) BPM1を超えると、閉塞状態や宇宙の暗闇に閉じ込められているような体験をすると言い、それはBPM2と言われ、子宮が閉じたままの状態で全方位的に締め付けられる状態に対応していると考えられる。この段階に特徴的な体験として、三次元の螺旋、漏斗、渦巻の体験といったことが挙げられる。また、強制収容所の住人や精神病院の入院患者などの体験や永遠の罪を象徴する元型的人物との体験同化と結びつくこともある。 BPM2の影響力の体験(『脳を超えて』p.155より) 続いて、胎児が産道を通過して生まれる出産時の体験と似ている体験をし、これはBPM3と言われる。BPM3では、胎児が出産の最終段階に糞などの生物学的物質に密接に接触する可能性があるという事実から、強烈な恐怖感を伴う地獄のような体験であるとも言われ、死の葛藤の領域とも言われる。 BPM3~BPM4への移行を表す(険しい山を登り光に到達しようとしているが、鳥がそれを妨害しようとしている)絵(『脳を超えて』p.171より) BPM3を超えると、死と再生の体験が訪れ、これはBPM4と言われる。この段階は、葛藤の終了と解決だが、あらゆるレベルの破滅感や敗北感が含まれるようである。カーリーやシヴァなどの破滅的神々とつながる自我の死の体験なども見られる。しかし、そのような破滅の体験は即座に超自然的な輝きと美を備えた眩い白光や黄金の光のビジョン(聖なる元型的存在、虹のスペクトル、精緻な孔雀の模様といった展開と結びつく場合もある)に取って代わられ、霊的解放、償い、救済の深い感覚を体験するといわれる。 第3段階の領域を抜けるとトランスパーソナルな領域に入っていくと言われている。トランスパーソナルな領域については、以下で触れる。 トランスパーソナルな領域 トランスパーソナルな体験の領域に入ると、日常生活で当然とみなしている障壁を突き抜け、様々な歴史的出来事や未来、私たちの意識の範囲外にあるとみなしている世界の諸要素が実際に体験したものと同じように本物であるかのように見え、それらを想像の産物とみなすことはもはや、不可能であるという。スタニスラフ・グロフは、トランスパーソナルな領域は、物質主義科学と機械論的世界観の基本的な仮定を揺るがすものであることを次のように述べている。 トランスパーソナルな体験には、物質主義科学と機械論的世界観のもっとも基本的な諸仮定を揺るがす数多くの奇妙な特徴がある。これらの体験は深層の個的自己探求のプロセスで起こるものであるが、それを伝統的な意味での精神内現象と解釈することはできない。それらは一方では自伝的体験や分娩前後の体験と一つの体験的連続体を形成し、他方では伝統的な個人の範囲の定義を明らかに超える情報源に、感覚器官の介入なしで直接ふれる。そこには他人、異種、植物、無機的要素、器具なしでは接近のできない微視的・天文学的領域、歴史と有史前、未来、遠隔地、他の存在の次元の意識体験が含まれる。(*3) トランスパーソナルな領域を理解するためには、全く新しい方法で意識を捉え直さなければならない。ここにおいてわれわれは、意識が人間の脳の内部で創り出される何かであって、頭がい骨と呼ばれる容器の中に収納されている、という先入観から解き放たれはじめる。意識が個人的な生の結果としてだけ存在するという信念を、われわれが乗り越えるのもここにおいてである。(*4) トランスパーソナルな意識は、有限ではなく無限であり、時間と空間の諸限界を超えて広がっている(時空を超越するような体験である)。グロフは、トランスパーソナルな領域を地図化するに際して、彼自身の研究と他の権威者によって語られてきたトランスパーソナルな体験から、(1)日常の時間と空間の範囲内における意識の拡大ないし拡張、(2)日常の時間と空間の概念を超越した意識の拡大ないし拡張、(3)プシコイド性の体験の3つの体験領域に分けて考察するのが有益であるとしている。(*5) 日常の時間と空間の範囲内における意識の拡大ないし拡張 物質的、空間的な境界が溶解し意識の拡大ないし拡張の例として二元的融合と呼ばれる他者との同一化が挙げられ、具体的には母親の感情と同化するといったことから、共通点を持つ人々の集団の意識との同化といった例もあり、極端な形態としては、人類全体への同一化といったこともある。さらに、動物の意識を体験するというケースもあり、珍しい例では、惑星上の全生命を包含する意識にまで意識が拡大する者もいる。また、植物や鉱物を体験したり、意識が地球全体を包含する惑星意識の体験にまで拡大したりするといった例もあり、このような体験から、心と意識が人類のみの特権ではなく、自然全体に浸透し、様々な形で存在していると言える。 時間の境界が消失する体験の例として、受胎の瞬間の体験や生命の進化を辿り生命の原点に辿り着いたり、両親の子ども時代の意識を体験したり、歴史的出来事や当人が全く知らなかった先祖の気持ちを体験したりするといったことがある。さらに、過去生の経験といったものも含まれ、グロフは、退行催眠ではなく、薬物の投与によって過去生の記憶を思い出させる事に成功したという。 日常の時間と空間の概念を超越した意識の拡大ないし拡張 さらに、トランスパーソナルな領域は、このような領域のさらに先に進むと日常で見慣れたリアリティとは似ても似つかない、神話的、超人間的存在の世界に参入する場合もある。トランスパーソナルな領域における有益な体験の1つとして、指導霊や超人間的存在との遭遇があり、彼らからの情報は五感とは異なる回路を通してテレパシー的に伝えられることが多い。そして、もっとも全包括的なトランスパーソナルな体験として、創造者と宇宙意識の体験といったものがあり、ヒンドゥー教のブラフマン、大乗仏教のダルマカーヤ(法身)、道教のタオなど宗教的伝統でしばしば言われる究極的な体験が訪れると言われる。また、トランスパーソナルな現象の中で最も不可解な体験として時間と空間を超越し、あらゆるものの源であるがそれ自体は何ものにも由来しないという空の体験を挙げている。 プシコイド性の体験 プシコイド性の体験は、プシコイドとは集合的無意識の元型との関連でユングが用いた言葉であり、プシコイドの領域の多くはUFO遭遇やヨガ行者の超自然的な離れ業など私たちが自然法則とみなしている事を侵犯するような出来事を含み、日常的なリアリティの知覚への最大の挑戦を表している。多くのUFO体験は、単なる幻覚でもなければ、通常の意味での現実でもないというプシコイドの特性をもっているようであり、これは、ケネス・リングがUFO遭遇や臨死体験について幻覚か現実化という2つの解釈の中間、あるいはそれらの外側にあるような第3の領域での解釈を検討した事にも通じているように思える。 参考文献 河合隼雄/吉福伸逸共編『宇宙意識への接近 伝統と科学の融和』春秋社 1986年 吉福伸逸『トランスパーソナルとは何か 自我の確立から超越へ』新泉社 2005年 スタニスラフ・グロフ『脳を超えて』吉田伸逸・星川淳・菅靖彦 訳 春秋社 1988年 スタニスラフ・グロフ/ハル・ジーナ・ベネット『深層からの回帰』菅靖彦・吉田豊 訳 青土社 1994年 ケネス・リング『オメガ・プロジェクト UFO遭遇と臨死体験の心理学』片山陽子 訳 春秋社 1997年
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無意識の少女/ Unconscious Girl マナコスト (1)(U) タイプ クリーチャー ― 妖怪 P/T 1/1 レアリティ コモン カードを1枚捨てる:無意識の少女はターン終了時まで3/3になるとともに、被覆を得る。 関連カード 地霊殿の共鳴者サイクル 空を飛ぶ地底の巫女 無意識の少女 緑眼の橋姫 狂わせる怨霊 頑丈な猫 参考 カードセット一覧/東方地霊殿 参考 カードセット一覧/東方地霊殿